雉岡城跡・塙保己一記念館・旧宅 散策 埼玉県本庄市(旧児玉町)
令和4年(2022)8月17日 雨 参考地形図 藤岡/本庄
城跡入口左の縄張図を見ると、東西270m・南北430mの広さだが、遺構は3割ほどになっている。西から北にかけては、中学校・高校の敷地になり、東の伯耆郭も南半分が残るのみ。古文書によれば14世紀初めには居館があったと推測され、15世紀に山内上杉氏、後に後北条氏の支配となる。豊臣秀吉の小田原攻めから徳川家康の関東入国を経て、松平氏の転封に伴い慶長6年(1601)に廃城と記載されている。城跡入口の左を西に向かう車道は堀跡になる。
現在の城跡入口 |
入口左の案内 |
入口左の車道(空堀) |
  
トイレ右奥は堀(水堀)がカーブし先へ続く。冬なら草が枯れて跡が見やすくなるのだが。入口から右前方に行くと隅に玉雲翁頌徳碑が建っている。郭名はないが、左手よりやや高くなり東側には高い土塁が巡っている。先で堀へ下りて伯耆郭の土塁を上る。
入口トイレ後ろの堀跡 |
入口を右に、最初の郭 |
伯耆郭南の土塁と堀 |
  
伯耆郭は縄張予想図を見る限りでは南1/3が残っている。ここから見える堀跡は水堀で、大分浅くなっているだろうが、堀・土塁と堪能できる。堀底へ下り西斜面を登れば、本丸東の土塁を歩くようになる。土塁の西側は際まで中学校校舎が迫っている。
伯耆郭 奥は高校 |
伯耆郭から見た堀 |
本丸南東の土塁? 奥は校舎 |
  
本丸土塁南端から堀を下る。左に眺められる堀跡もすばらしい。上り返せば本丸南の郭になるが、東の土塁のみが残り、金比羅神社が祀られている。先には鳥居・芭蕉の句碑がある。鳥居を過ぎれば土橋となり馬出郭だが、西半分は消えている。馬出の堀は整備されているが、法面を現代の石垣で補強している。
金比羅神社手前から東方向 |
金比羅神社 |
大手側から馬出 |
  
馬出の南には大手跡があり、土塁が幾分凹んだ場所と思える。ここの土塁は城内でも一番規模が大きい。眼下には車道が通っており高低差が分かる。大手から車道を挟んだ先も同じような高さがある。大手先に行ってみたが民家・私有地で入れない。城跡と中学校との境を見ると、大規模な整地が分かる。
大手方面(左の凹んだ辺り) |
土塁上から車道 |
遺構と中学校の境 |
  
城域の北を流れる女堀川からは高校校舎が見え、三の丸北側の堀跡らしき溝が確認出来る。手前は空き地だが、馬出郭があった辺りと思う。空き地以外は民家・私有地で校舎方面に行きづらい。北側から東に回り込み、高校の正門方向に進むと、伯耆郭東の堀跡が左右に確認出来る。土塁跡らしき高まりも一部あり、特に高校正門手前には低いが明瞭に残る。正門は右、左に行くと民家先で遺構の伯耆郭内に入れる。
高校北側 馬出辺り |
伯耆郭東の堀跡 |
東屋のある郭は上る |
  
伯耆郭から南に進み、堀底から上り返すと、東屋の建つ名前のない郭に出る。上から見る堀は見応えがあり、底には「夜なき石」と呼ばれるものがある。説明板には親子石とも呼ばれたと。時代は記されてない。奥方に井戸へ沈められた側女のお小夜は妊娠しており、夜な夜な泣き声が・・・詳しくはHP等参照してください。小雨の降るなかだが、周囲の堀跡などは木々の葉が落ちた季節が良い。
東屋のある郭 |
東屋のある郭北の空堀 |
堀底の夜なき石 |
  
城跡から南へ徒歩5分で塙保己一記念館へ着く。アスピアこだまの一画に造られている。道路側には塙保己一像がある。入館時に記名はするが、無料で見学可能。展示室の規模は小さいが充実している。城跡からは25分〜30分と遠いが、史跡として旧宅が補修などしながら保存されている。現在も住んで居られるため中には入れない。
塙保己一記念館 車道側 |
記念館内側 入口 |
塙保己一旧宅 |
  
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