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別府城跡・庁鼻和城跡・深谷城跡・岡部氏館跡 散策  埼玉県熊谷市/深谷市
令和5年(2023)6月7日 晴れ              参考地形図 深谷

1.別府城跡 熊谷市西別府

 説明板の概要は、平安時代から室町時代におおける別府氏の居館跡であり、東西約100メートル、南北約90メートルの規模。跡地には建立年代不詳だが東別府神社がある。別府氏(藤原氏)の氏神、春日神社を勧請、明治42年に榛名神社を合祀し現在名になる。成田助隆の次男・行隆が別府氏を名乗り、その長男・義行が東部に居住し東別府氏となり、次男・行助が西部に館を構え西別府氏を名乗ると伝わる。

 神社鳥居がある南の堀跡はないが、東・北・西は良好に残り、土塁はほぼ残る。虎口が南・東・西と三ヶ所あるが、南は左右の土塁がずれ、左手には直角に短い土塁と思われる高みがあり、特異な形状をしている。西は堀を渡り土塁下を南に10メートル行き虎口になるが、当時からなのか。東は平虎口だが、こちらも当時の遺構か分からない。
参道から入口 左の土塁 右の土塁

右の土塁を東から 境内から右の土塁 神明社 裏の土塁

東別府神社 社殿 境内北東の御嶽神社 御嶽神社上部から北側の堀

八幡と天満天神社 背後の土塁 東虎口を堀側から 東の堀

北の堀を西に向かって 北の堀を東に向かって 西の虎口方向

西虎口と堀 西虎口から内部を 西虎口内の土塁

  
2.庁鼻和(こばなわ)城跡 深谷市国済寺

 国済寺の境内が城跡になる。黒門(総門)・三門は市指定文化財、裏に上杉氏歴代の墓所がある。説明板には13世紀末、関東管領の上杉憲顕が新田氏を押さえるため、六男・上杉憲英に館を築かせた。以後3代にわたり居住。一辺170メートルの方形で、外郭を含めると28ヘクタール(東京ドーム20数個以上か)ある。

 康応2年(1390)に高僧峻翁令山禅師を招いて館内に国済寺を開山する。本堂裏には築山と土塁が残っています・・・。   館としての遺構は本堂裏に土塁と土塁状の築山が残る程度。庭の手入れ中で築山近くに寄れなかったが、北側のスーパー境に残る土塁より高い。築山の北側に窪んだ地形があり、堀跡ではと意見もあるが、築山に伴う池ではと想像する。
国済寺 道路から 黒門(総門) 三門

本堂 鐘楼 築山を

築山と凹みの池跡 境内北西の高まり 土塁上から東を

  
3.深谷城跡 深谷市本住町

 深谷城の主郭周辺は城址公園と市の施設が建っている。室町時代中期の康正2年(1456)に上杉房憲が古河公方の侵攻に備えて築城したと伝わる。秀吉の関東攻めで開城するまで134年間、北武蔵における上杉方の拠点であった・・・。冨士浅間神社(智形神社)の社殿を巡る池と水路に往事の姿を留めるのみである、と案内に載る。

 公園の入口は何カ所もあるが、南と西入口は石垣、土塀などが模擬復元されているが、公園整備に伴うもの。唯一案内の通り浅間神社入口に、外堀跡の標柱があり浅い溝が確認出来る。
西側の模擬石垣・土塀 模擬土塁 車道脇の長い模擬石垣

南側の模擬石垣 縄張図 公園の一風景

公園の一風景 奥に浅間神社 神社入口右 標柱のある堀跡

堀跡を北に向かって 神社 社殿右の辺り 社殿裏から南を、堀か池

  
4.岡部氏館跡 深谷市普済寺

 岡部氏は武蔵七党の猪俣党で、猪俣六太夫忠綱が岡部に移り岡部氏を称したとする。源頼朝の挙兵に参陣し功績のあった岡部六弥太忠澄は、忠綱の孫にあたる。

 岡部氏館跡は菅原神社辺りに表記されているが、南西300メートル強に普済寺があり、寺域が館跡とも言われる。何らかの遺構はあるだろうと寄ってみた。神社参道から南東100メートルに、古墳と思われる高みがある。何方かの資料に館の物見が建っていたとする説を紹介していた。今は稲荷神社が建つ。

 普済寺は台地末端のように見え、菅原神社は台地下でかなり高低差がある。参道の鳥居右には堀状の遺構があり、先で北に向かい東の堀状が続き、さらに先で西に向かって北側の堀状になる。鳥居奥に菅原神社の社殿、鳥居斜め右に厳島神社が建ち、社殿の西から北にかけて堀状の遺構がある。厳島神社が水に縁が深いため、単純に周囲を含め池跡かも知れない。館であれば西側半分以上は畑地になっている。
菅原神社の森 参道から入口 鳥居右の堀状

堀状遺構を側で 厳島神社 社殿左から奥へ、堀状

菅原神社の社殿 境内東の堀状遺構、北に向かい 南に向かって

北東隅から南を 北東隅から西を(北の堀状) 社殿西の畑から堀状遺構

畑から菅原神社の社殿 こんもりした高み 上に稲荷神社



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