土気城跡 散策
令和5年(2023)1月31日 晴れ 参考地形図 東金
説明板によれば、平安時代に東北の蝦夷に対する軍事拠点として築いたとされる。その後1488年(長享2年)、中野城主であった酒井定隆が修復入城し、以後5代・100年間に亘り上総の地に君臨した。天正18年(1580年)の小田原攻めの際に、房総攻めで敗れ廃城になった。とある。
城跡の東から入り田畑を抜ければ、徐々に登りになる。分岐を南に下らず北に向かえばクラン坂の入口となる。切り通しで左右の面が垂直に近い。外房線を越えれば再び切り通しに戻る。
  
すぐに三叉路が現れ道は西へ大きく曲がる。また右にやや下る道があり進んでみたが、入口は堀切に見え、先では土橋・堀と思える地形がある。単に低地の上金谷と台地を繋ぐ道だろう。クラン坂はしばらく続く。崖面に数カ所の横穴が散見されるが、どなたかの資料に横穴式墓ではないか、と載っていた記憶がある。
上金谷方向への入口 |
先の地形・土橋に見える |
クラン坂の終点間近 |
  
薄暗いクラン坂を抜けると台地で、一帯は二の丸、右後ろが本丸になる。左はテニスコートになっている。先に土塁跡があり、奥は堀となっているが、竹藪化している。
台地に出た所 |
二の丸のテニスコート |
土塁跡・右奥は堀 |
  
土塁の反対に二の丸の堀が一部石積みで整備されている。土橋側は堀と分かるが、藪化しており画像では伝わらない。奥に福祉施設が建っている。土橋先、二の丸・本丸は施設の敷地のため、声を掛け入れてもらった。施設近くに小振りなモアイ像が何体か置いている。その背後に高い土塁跡らしきものがある。
  
  
三の丸虎口近くに祠と案内板がある。祠横の畦を奥へ行ったが、畑地以外は藪であった。三の丸虎口の土塁上に貴船神社が建つ、反対の土塁は痕跡が残る程度。神社から堀を覗くとかなり深い。
  
三の丸の堀に深さが分かるのは、民家との境から良い。三の丸虎口先は縄張図に拠れば、馬出風の郭があるようだが、住宅地になり判断がつかない。引き返し本丸に向かう。一度クラン坂へ向かい台地に出た場所まで戻る。門は開いているので、許可を貰って入れさせてもう。
神社側、民家横の堀 |
三の丸土橋横の堀 |
本丸の一風景 |
  
二の丸との堀跡が僅かな凹地で残っている。城址碑が立つ後ろは、かなり高い土塁状で、物見台を連想させる。本丸は広く、その他郭を含めると広大で、力のある武将の居城らしい。
  
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