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小机城址・土井谷砦跡 散策     横浜市港北区
令和4年(2022)9月17日 晴

1.小机城跡

 雲松院さんのHPには、文明10年(1478)扇谷上杉氏の家宰、太田道灌に敗れ廃城になったと載っている。その後小田原北条氏の家臣、笠原氏が大永4年(1524)頃に城代として入る。
 昨年2月についで2回目の散策。日産スタジアムから西に見える丘を目指す。小机城址市民の森の案内に従って住宅地内を通り、第三京浜手前を右折し住宅地内をやや上る。民家の終わりから竹林の中を進み、すぐに根小屋広場でトイレなどがある。背後の竹林には幾段も小さな削平地が見られる。
サッカー場から城址 民家終わりからの道 根小屋広場


 根小谷(屋)広場を過ぎ上れば丁字路に出る。目の前の空堀は見応えがあり、左奥には西曲輪(本丸)への土橋が見える。土橋方向に行けば、西曲輪(本丸)虎口前を守る馬出曲輪と言われる。左右の空堀・土橋・先の土塁・模擬冠木門が見え、撮影ポイント。
伝馬出から奥に冠木門 土橋右の空堀 土橋から馬出方向


 西曲輪の周囲には土塁が確認出来るが、東側は低く土塁跡かと思わせる程度。北側の堀は南同様、浅くなっているとは言え深く広い。
西曲輪南の土塁 北から冠木門を 西曲輪北の堀


 西曲輪の東側には、つなぎの曲輪と呼ばれる南北に細長い曲輪があり、土橋で繋がり、左右の堀が確認出来る。馬出まで戻り祠のある小さな曲輪に向かう。南下には竹林の中に数段の削平地が見受けられる。
西曲輪からつなぎの曲輪を つなぎの曲輪南端から下を 祠のある小さな曲輪


 祠のある小さな曲輪から一度下れば、西曲輪から続く堀に入れる。堀底から見上げる高さは圧巻。散策路は上り東曲輪(井楼跡)方向に行くが、本来の道ではなかったようだ。柵の右に小曲輪があり、南から小曲輪を通り東曲輪に向かったらしい。今の東曲輪手前に井楼跡があるが、本来は左の櫓台の土塁が続いたらしく、西曲輪と東曲輪は耕作地だったため、大部分が削られている。
西曲輪から続く堀(堀底) 東曲輪(井楼跡)方向 今の東曲輪入口


 つなぎの曲輪の南端には櫓台跡があり、見下ろす堀の高さを実感できる。この曲輪の入口から西曲輪・東曲輪を見ると、両曲輪より高く、説明板に土塁跡とあるので納得する。
つなぎの曲輪から逃がし曲輪 つなぎの曲輪から西曲輪 つなぎの曲輪南端から下


 東曲輪の南に本来の虎口跡があり、下から眺めるといかにも虎口らしい。先は急斜面で、先ほど下にあった小曲輪が間近に眺められる。僅かに遺る土塁には櫓跡がある。北側には散策路が付けられて堀底に下りられる。西曲輪以上に大きな堀が巡っている。
本来の東曲輪虎口 虎口下から 虎口下から東

東曲輪の一風景 土塁上の櫓跡 東曲輪北の堀


 堀に下りた正面に櫓跡が見えるが、散策路から外れるため行けない。つなぎの曲輪の左右に散策路があり、左は東曲輪の井楼跡に、右は西曲輪の北東に出る。この辺りから西曲輪北側の堀がよく眺められる。。
北の堀底から櫓台跡を 正面はつなぎの曲輪北端 西曲輪北の堀(左が曲輪)


 馬出から第三京浜側に行く。すぐに堀跡を過ぎフェェンス沿いに階段を下り、高架下を潜り再度階段を上る。出曲輪(丸・郭)とも言われ、主曲輪と尾根続きだったらしいが面影はない。小高い頂部に、冨士仙元大菩薩と刻まれた石碑が建っており、富士仙元とあるので富士山の遥拝所のようだ。南に続く尾根は意外にも両側が鋭く切れ込んでいる。人工的に狭くしたような、土橋に見える場所があるが、考えすぎかも知れない。
散策路を北に向いて 馬出西の堀跡? サッカー場が見える

こんもりした小山 冨士仙元大菩薩の石碑 南の尾根・先は住宅地


2.土井谷(ドイヤト)砦跡

 小机駅の南に雲松院はある。雲松院さんのHPから抜粋させてもらう。山号は臥龍山、小机城主の笠原越前守信為が主君北条早雲と父能登守信隆の菩提を弔うために建立する。年代は天文年中(1532−1555)とあるが、実際は少し古く大永5年(1525)頃と推定される。
雲松院参道 雲松院山門 本堂を奥に見る


 砦跡は本堂等の裏山とされている。裏の多くは墓地で森の中は立ち入れない。
本堂正面 鐘楼 池越しに本堂


 山門から東に向かい、突き当たりの細い道を南に上る。左右とも墓地になっている。振り返れば市街地・高速道路などがが見渡せる。道は両岸の高さをみると堀切を思わせるが、単に切り通しで生活道路かもしれない。裏山一帯は雲松院の敷地で、柵もあり立入出来ない。
切り通し 上りで 上った先で振り返る 立入禁止看板


 道路地図に土井谷砦跡が載っている。雲松院南の小学校の東に、谷を挟んで丘がある。現在は畑になっており、耕作者に断って入らせもらった。地形図でも畑と雲松院裏山は、標高45m前後で差がない。畑地の南は緩やかに下るが、東側は急斜面となっている。知識不足のため遺構など確認出来ず。
切り通しから小学校方向 小学校境から切り通し方向 中央右辺りが砦跡の印

畑越しに小学校方向 畑台地の北隅に下る道 小学校西側から北の堺



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