トップへ戻る | 一覧へ戻る |
石垣山(262m) 北東に三角点 241.3m 小田原市 平成17年(2005)3月27日(日) 晴 参考地形図 小田原南部 神奈川に住みついてから3年が経とうとしている。仕事では出かけている小田原市街地も私的には全く出かけていなかった。桜には早いとの情報だったが小田原城址と漁港にでも行こうと、妻と久しぶりに出かけた。自宅を出発したのが9時半を過ぎており、のんびりと東海道線で行く気がなく、贅沢にも新幹線となってしまった。社員旅行などで小田原駅まで来て、箱根方面に乗り換えることはあったが、駅構内から表に出るのは初めてである。妻が市内の名所・旧跡で乗り降り自由な回遊バスがあると、駅構内で案内をもらってきた。1日何回乗り降りしても100円で、「小田原宿観光回遊バス」とある。停車する一つに石垣山一夜城が載っている。個人的には安土桃山時代後半の城の遺構である小田原城址以上に石垣山一夜城址に行ってみたかった場所である。パンフレットなどにはその時の内容が詳しく説明されている。 回遊バスは小田原東口前の8番バス乗り場から30分おきに出ている。11時発は出たばかりなので、先に小田原城址に行くことにした。JR・箱根登山鉄道沿いに進み、北入口から行くと天守閣の北側に着く。駅から歩いている人の多さにもびっくりしたが、城跡に着いてみると、それ以上の多さである。休日で天気がよく、首都圏からの交通アクセスもよいためだろうか。お決まりのコースだったかも知れないが、天守閣と小田原城歴史見聞館を見学、まとめてチケットを購入したため600円(100円引き)。広場では小田原おでんサミットなるものを開催中であった。全国(と言ってもそんなに多くはなかったようだが、沖縄との地名はあった)のおでんを一堂に集めてのものである。昼時もあって長蛇の列であった。他の広場ではかまぼこ桜まつりがあったようだが、時間がなくパスをした。桜まつりとあるが一輪も花が咲いていない、来週で数分咲きまで咲いているか心配である。一度駅にもどり回遊バスを待って乗車すると、ボランティアでバスガイドをしている男性(年齢は聞いていないが、60歳くらいか)が案内を簡単にしてくれる。このバスを利用すると、小田原城址・一夜城址では、現地にボランティアの人が居り一通り案内をしてくれるとのこと。 ![]() ![]() ![]() お堀端通りを走り、早川を越えJR早川駅近くから狭い道を入ると海蔵寺方面に右折、そのまま道なりに高度をあげてゆくと右側が開けて一号線・早川・箱根登山鉄道が見える。このあたりにも桜が植わっているが、ソメイヨシノはまだで、一本あったヒガンザクラ系(?)が咲いている程度だった。すぐに周囲は見えなくなり、さらにすすむと駐車場に到着する。100台以上はゆうに駐車できる駐車場はすいており、30台も駐車していただろうか。(案内には先にも2カ所駐車場があるように記載されているが確認はしなかった。)途中でガイドさんが言っていたが、バスが運行していない時は、早川駅から小一時間歩いてくるのだそうだ。小田原城址と比べると閑散としている。 バスを降りると名札を付けているボランティアの男性が一枚刷りの案内を配っているこの人の案内だと約一時間かかるらしい。ボランティア同行でもっとも石垣がよく残っていると言う南曲輪の下に案内された。確かに捨てられていた遺構にしては良く残っていると思う。しかし二の丸と呼ばれる方に歩き出すと、かなり石垣は崩れており当時を想像するのが難しい。私たちは一時間をかけていられないためボランティアとは二の丸広場で別行動とし、本丸と呼ばれる場所に向かった。物見台跡を過ぎると本丸跡に入る。私たちは東側からだが、案内では公園になっているので散策道が反対側にもついている。本丸に入って直ぐに左手に高さ2メートル程度の祠が祭ってあったが、何の祠か確認しなかった。さらに右手には北東方面が見渡せる展望台が作ってあり、小田原市街と相模湾が眼下に見える。南西隅には数メートル高くなった天守台跡ある。城を造ったのが豊臣秀吉だと思うと、平坦地は意外と狭く感じられた。もっとも居城にしていた大阪城を考えてはいけないだろうが。角には「史跡石垣山一夜城跡水準点H=261m.160」との埋め込みがあった。 ![]() ![]() ![]() 30分おきに来る回遊バスに乗車するため下った。次は小田原漁港・魚市場に向かった。少し遅い昼食にしようと市場の2Fの食堂に入ったが満席。2時を回った時間のためか食べたいものも完売していた。しかたなく近くの小田原さかなセンターまで行き、中の食事処で済ませ、バスを待って小田原駅に向かった。石垣山自体のハイキング記録ではなく、単に大幅な省略をした観光記録でした。歩行時間は全く参考になりませんので、省略しました。 |
一覧へ戻る |