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榎下城趾(舊城寺)・鳥山城址(鳥山八幡宮) 散策 横浜市緑区・港北区 令和4年(2022)8月30日 雨 横浜線中山駅から徒歩13分ほどで三保団地入口の交差点に着く。こんもりと木の生い茂る所が榎下城址の北側になる。道路を西に向かうと左手は急斜面になっている。すぐに斜面が切れた場所を通過する。中は石柱と門扉があり入れないが、覗かせてもらうと数段になった斜面が見える。城北側の郭跡なのだろうか。
城跡入口は北から西へ半周する。左斜面に沿うように最初の小道を入れば、斜面は切岸状で小道は空堀だったのかと思わせる。右に小さな公園(三保天神前公園)が見えれば、10数メートル先が舊城寺(旧城寺)の境内に入る。横浜市指定、名木古木指定のカヤと向かい合ってイチョウがありカヤの脇に城址の説明板があり、簡単な縄張図も載っている。 小田原衆所領役帳・新編武蔵風土記稿だったか?に年代不明だが山田右京之進の居城だったと伝わる。横浜観光協会・横浜教育委員会銘の説明板には、榎下城は上杉憲清(詫間上杉氏)が築いたとされ、自然丘陵地を利用し。本丸を一段高い処に、内外(二重)に空堀を巡らせ、土塁を築き、大手口は喰違虎口を設けていたとある。上杉憲清の子憲直が永享の乱(1438)で哀歌が持氏(鎌倉公方)に与し破れる。後北条市の時代に小机城の出城として機能していたのではと。その後、慶長年間(1596-1614)に旧城寺が開かれたと載っている。寺林は県指定天然記念物に指定されている。
山門の内側、名木のカヤ・イチョウの背後がやや高くなり土塁跡を思わせ、イチョウの後ろにも更に大きなカヤがある。このカヤ立っている土塁が一番高い。山門辺りが大手口だったようだが、虎口の堀は消滅している。 本堂には大日如来坐像、薬師堂には薬師瑠璃光如来が奉られている。本堂などが建っている場所は二の丸のようで東側には土塁が描かれている。しかし薬師堂・社務所裏にあたるため遠慮した。本堂の左手から裏一体は墓地になり、さらに一段高くなった場所が本丸と思えるが、手前の多くは墓地になっている。
本丸左に山田右京之進城跡碑入口と弓道場が建っている。入口から左奥へ進むと、土塁跡と思える高さがあり、末端に石碑が建っている。ここは見張り台と言われる。石碑は昭和初期(1935年)に横浜貿易新報社(現神奈川新聞)が開催した県下名勝史蹟四十五佳選の当選記念として贈呈されたものと載っている。石碑場所から見下ろせば細長い郭跡が確認できる。
本丸の墓地裏は下草が多く、また竹林となっており遺構が確認しづらい。本丸の西から北にかけて急な斜面は切り岸か?と思えるが、その下は竹などが多くよく見えない。
横浜線小机駅から徒歩12分で鳥山八幡宮参道入口に着く。参道奥に二つ並んだ鳥居があり、階段を上れば社殿前に出る。左には道が付けられている。この地に佐々木高綱の居館があったと伝わる。 八幡宮は源頼朝の挙兵に加わり功をたて、一帯を所領とした佐々木高綱が創建したと伝わる。本来近江国の高綱の父、佐々木秀義は源義朝に味方し敗れ、奥州に逃げる途中で渋谷某に匿われていた。挙兵時に父・息子4兄弟が従い、功により旧領の近江国へ戻れたそうである。この佐々木氏は京極氏・六角氏の元となった氏。
舊城寺(榎下城跡)境内にもあったが、少し時代が経った境内には、名木古木指定の大木が存在する。社務所裏など、はいかにも段差が郭に見えてくるが違うだろう。
社殿等は中腹に鎮座し裏が10m以上高く、急な崖となっている。城跡とすれば上った先が主郭だろうが、境内左端の道を上りきると住宅地の道が付けられている。上った所は尾根状に感じたが全て民家・私有地になっており、城跡だった雰囲気はない。社殿前から参道を見ると、かなり高低差はあり、正面にサッカー場が眺められる。
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