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山名城址(184m)・根小屋城址(19.8m) 散策   群馬県高崎市山名町
令和4年(2022)11月17日 晴            参考地形図 高崎

 位置的には山上碑・山上古墳を目指す。山上碑・山上古墳の入口手前150メートルに東駐車場があるが、入口の先50メートルに西駐車場があり、トイレが併設されている。入口からの散策路は高崎自然歩道でハイキングコースになっている。二つ目の石段は直線でやや長い。
西駐車場 山上碑・山上古墳入口 急階段の二つ目


 上り切ると正面に古墳があり。左に碑を保存している建物がある。山上(やまのうえ)碑は上野三碑と呼ばれる碑の一つ。山上碑は完全に残る日本最古の石碑で、天武天皇の時代、天武10(681)年に造立され、佐野三家(さののみやけ)を管理した豪族の出身である黒売(くろめ)と、子の長利(ちょうり)の系譜を述べたもの。また古墳に埋葬された黒売の追善供養碑の性格を併せ持っている、と載っている。

 址跡へは古墳の右側に道が付けられている。道は尾根状になり緩やかに上る。一部は関東ふれあいの道の石柱があるので部分的に高崎自然歩道と重なるようだ。道には万葉集の歌が刻まれた石碑が間隔をおいて続く。コースは石碑埜路(いしぶみのみち)とある。
古墳と石碑建屋(左) ガラス越しに 山名城址方面の一景色


 正面に山名城址の入口が現れる。現地案内板の縄張図を見る限り、入口は山名城のほぼ西端に近い南側にあたる。上り加減から水平になる。南斜面には竪堀のような窪みもあるが、単に谷筋かも知れない。最初に見え出す堀切から西に上ってみたが、小さな郭が木々に覆われてある。郭の斜面は落ち葉が多く滑りやすく、木に捕まりながら上り下りする。しかし遺構を壊しかねないので注意したい。
城跡へ進む 最初にある堀切 堀切の西の小郭


 次に現れる堀切は幅広く高さもある。まず西の斜面を上がってみたが、落ち葉で滑り木に頼らなければ上れない。西郭端から本丸入口を見ると、高さがあることを実感できる。郭は広くなく少し進めば最初の堀切側に着く。
二つ目の堀切 本丸の西郭から本丸入口 本丸西の郭


 西の郭の西端から見る最初の堀切も、下から見るより高さを感じられる。堀底からが本丸の入口(本来の虎口?)になり本丸内は広い。ただ気が付かなかったが、周囲に土塁のような高まりは感じなかった。
本丸の西郭西の堀切を 郭への登り口 主郭(本丸)内


 説明板には簡単な縄張図と共に、源義家の孫、新田義重の子、義範はこの城に拠って山名氏を称し、以後8代にわたり山名城を護ったと言う。弓矢から鉄砲の時代に改修された戦国期の特徴があり・・・と記されている。郭内には山名城址碑もあり、本丸を含みここまでは整備されている。
 一度本丸を出て南下を東に行くと、削平地らしき場所、堀の遺構がみられ、二の丸辺りを見上げる急斜面は高さも十分あり、簡単には取り付けないようだ。
本丸にある城址碑 南側の横堀らしき窪み 二の丸の南下辺り


 根小屋城へは登ってきた分岐まで戻り直進する。平坦な尾根歩きが続く。高崎商科大学前駅に下る分岐を過ぎ、金井沢碑分岐から右に派生する尾根に向かう。やや下り加減になる。
根小屋城址へ向けて 高崎商科大前駅分岐 城址と金井沢碑の分岐


 万葉集の歌碑は尾根状に建てられており、道は小さなアップダウンをしないようにやや下に整備されている。搦手の標識が立つ先に東屋風な休憩所があり、ここから再度下り気味になる。
万葉集の歌碑 搦手表示 東屋風休憩所


 下りきった場所から整備された遺構が分かりやすく、左回り・右周りの標識がある。ここにも万葉集の歌碑があり、裏手に掘り跡らしき窪みが見える。
休憩所側から鞍部を 鞍部にある標識 歌碑裏の堀らしき窪み


 左回り入口は堀跡らしくV字になっている。右回りに行くと大きな堀切の底を歩く。この堀切が一番の見応えに思える。右上は郭跡と思うが、笹・下草が多くよく分からない。
左回り入口 右回り方向 右回りの堀切


 堀切を抜けると追手の標識があるのだが、麓から何処を上って来るのか分からず。北東に自然地形なのか人工的な竪堀なのか不明だが、幅広く下に続いている。その上も道から数m高く、郭跡らしいが下草・木々が多く先に進まなかった。
追手の標識 竪堀か 本丸北の高み(郭)から


 やや戻り本丸東虎口へ向かう。虎口は右に折れて枡形となっている。眺めは一部で樹間から高崎市街地がある程度。
 説明板に依れば、根小屋城は永禄11年(1568)、或いは永禄13年(1571)に武田信玄が山名と鷹の巣の間に新城を築き、信州佐久郡の望月甚八郎と伴野庄の伴野助十郎に守らせた。鷹の巣とは寺尾にある茶臼山城とある。北条氏康・上杉謙信と対峙していた時に、周囲を監視するため狼煙台としてが始まり・・・と載っている。
本丸への虎口 本丸を虎口側から 樹間から高崎市街


 本丸の西端に坂虎口跡がある。写真ではよく分からないが、虎口の先はほぼ45度はありそうな斜面に加え、落ち葉で滑り思うように下れない。防御面は良いが通常の出入りは難しい虎口。下りた所は堀跡にも思え、もう一段低い場所に水が溜まっている。
坂虎口跡を 坂虎口の標識 下から坂虎口方向


 西(右)に少し行くと、本丸西の堀切がある。左も小さな郭に見えるが、こちらも下草・木が多く踏み込まなかった。帰路は鞍部まで行き往路をたどる。鞍部までは本丸下の横堀跡と言われる堀底道を行く。左回りは坂虎口跡、本丸東虎口を通るものなのか、坂虎口下の先まで続くのか。また右周りは本丸に上がらず先にまだ続き、周回できるのか不明のまま時間切れとなる。
本丸西の堀切 左回りの一風景 途中では横堀らしく


 山上碑を入れて金井沢碑、多胡碑が上野三碑と載っている。他の二碑も遠くなく寄ってみた。駐車場に戻り金井沢碑に向かう。根小屋城址まで500mの分岐点から金井沢碑へ2qの表示があるが、車で回り込むと約4q、10分掛かる。こちらも立派な駐車場・トイレが設けられている。細い川を渡り整備された道の右上に建屋が見えてくる。山上碑同様に屋内に置かれ、劣化を防いでいる。
 戴いたパンフレットには、奈良時代初期の神亀3(726)年、三家(みやけ)氏を名乗る氏族が、同族と共に祖先の供養、一族繁栄を祈るために造立した石碑と載っている。
金井沢碑入口 金井沢碑保存建屋 ガラス越しの金井沢碑


 多胡碑見学駐車場があり、碑は多胡碑公園片隅の建屋内に保存されている。多胡碑は中央政府からの命令で、片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡内から三百戸を割き、新たに多胡郡を設置したことを記念した建郡碑と載っている。和銅4(711)年の公文書を略記したとみられる文字が刻まれているようだ。
 公園内には多胡碑記念館があり、無料で拝観できる。記念館には三碑の複製が忠実に再現され展示されている。また近くに多胡郡正倉跡がある。詳しくは上野三碑パンフレット・高崎市HPを参照してください。
多胡碑の建屋 右横窓越しの多胡碑 多胡碑記念館



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