高津戸城跡・梅原館跡・深沢城跡 の散策
令和6年(2024)11月14日 晴れ/曇り
1.高津戸城跡 群馬県みどり市大間々町高津戸
現地案内板に、山田七郎吉之が築城、十代目の則之の時、桐生国綱に滅ぼされる。その後、里見家七代・義連の三男・氏連が桐生氏より任され、仁田山八郷に入る・・・と。
紅葉で有名な高津戸峡の上が城址になる。展望台・トイレのある駐車場があり近くまで行ける。駐車場も南端の郭だったようだ。散策路の入口は如何にも虎口を思わせる。展望台からは西のみどり市大間々辺りが良く見渡せる。
  
要害神社の参道(入口)の鳥居の前に竪堀と思われる地形がある。神社の建つ主郭まで、数段の腰郭が見られるが、ほぼ杉林になっている。
  
上の鳥居先で帯郭主郭下には帯郭が一周する。主郭・周囲は土塁・堀跡は分からなかったが、そもそも無かったのかも知れない。最高所へ出れば中央に要害神社が建っている。
  
  
社殿横に要害神社と高津戸城の由来が書かれた説明板がある。冒頭の文はこれから抜粋。主郭下の帯郭から北の尾根には少なくとも二条の堀切が見られた。二条めの先まで行かなかったが、遺構があったろうか。
  
二条目の堀切 |
社殿裏の主郭下の帯郭 |
帯郭から主郭の城塁 |
  
2.梅原館址 桐生市梅田町
説明板の枚葉を概略すると、本館址は平安末期から鎌倉時代初めにかけ、この地を根拠とした足利俊綱の家臣、桐生六郎の館跡と推定される。その後桐生城を築き、その麓に居館を移す・・・。南の一部、北の大部分、西の土塁の一部が明らかに存在して、外側の堀は大部分埋まっている・・・と記されている。
薬師堂の裏(北側)は墓地で、背後は土塁と思われるが、奥の民家地は土塁と高さが変わらない。薬師堂の建立時に削平した残りと思えたが、民家側が土盛りおして高くしたかも知れない南は分からないが、西には一部土塁が確認出来るし、民家との間が僅かに低い。
  
 
3.深沢城跡(神梅城) 桐生市黒保根町宿廻
説明板は色あせ・塗料はがれで、縄張図・文字が判別不可能に近い。築城した阿久沢氏累代の墓がある正円寺は、天正18年以降、廃城になった後に移っているとのこと。
お寺の北側に堀跡・土塁があるらしいが、お参りするだけで犬に吠えられ続けるので遠慮した。お寺の東に、その続きと思われる堀切がある。本丸北側はかなり埋まった堀だが幅は広く、南下には二の丸との堀の底から続く帯郭があり、本丸との高低差がすごい。二の丸の東にも台地を分断する堀が見られ、自然地形かも知れないが竪堀状に南に落ちている。
  
  
堀を北に久賀って |
二の丸東の堀 |
二の丸を南から北を |
  
  
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