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里見城跡・北新波砦跡・人見館跡 散策      参考地形図 下室田/深谷
令和5年(2023)11月29日  晴れ

1.里見城跡  群馬県高崎市下里見町

 説明板には、新田義重の子、義俊が里見郷に築城し、その後、里見氏を称する。里見氏十代、義基が結城合戦で戦死、子の義実が房総に移る290年間あまり、この城に依拠した。本郭の東・南・西には高さ2.5メートルの土塁が巡らされ・・・、南西方向には腰郭、東方向には堀切が・・・。南北朝時代に南朝方で活躍した新田義貞は、幼少期にこの地で育ち、新田宗家の養子に入った・・・、と記載がある。

 城山稲荷の一の鳥居脇に駐車。社殿脇の参集殿前に2台停められる。参道には小振りな鳥居が幾つも連なる。社殿裏が一段高く平地になるが、墓地が占めている。墓地の西側も幾段かの平地となり畑もある。平地の北側に民家・作業場が建ち、南は道路を挟み、城山団地が展開する。先人の情報では、道路は堀跡、団地は郭ではとある。
一の鳥居 右に駐車可能 一の鳥居から 参道の鳥居群

社殿裏から鳥居(参道方向) 社殿から榛名山を 道を挟んで城山団地


 本郭方向と思われる民家のある道は、私有地で作業中の方がおり、通る許可と情報を聞いた。快く許可されたが、「城跡は整備されず、草が生い茂り行けない」と言われたが、民家脇を進むと、虎口らしき高まりがあり、郭内は確かに草がすごい。周囲には枯れ草の高くなった場所があるので、そこが土塁跡では。草地を歩き回る気がせず、数枚の写真を撮り戻る。
墓地西の平地(畑) 平地北の民家 民家奥の風景

虎口下の左の風景、やや凹む 虎口、土塁の欠けた部分? 周囲の高い草地は土塁?


  
2.北新波砦跡  群馬県高崎市北新波町

 公園説明板には、長野氏発祥の地であり、地域に分散する環濠遺跡群は、14世紀後半から16世紀中頃の長野氏成長期の遺産である。12世紀初め、浅間山の噴火により壊滅的打撃を受けるが、長野氏が主導的立場となって・・・。やがて長野氏は15世紀中頃に箕輪城を築き、16世紀中頃に武田氏に攻め落とされるまで、西上州の盟主として君臨していた、とある。
 75メートル四方の郭で、砦と言うより館跡ではと思う。周囲の堀は埋まり、僅かに段差がある程度。南虎口部には突出部があり、土橋に横矢が掛かる。公園としてはよく整備されている。
砦跡碑 案内 長屋門風トイレ

南西隅から東 南虎口 虎口を正面から

南虎口土橋から東を 南に突出した土塁上から 突出部から虎口を


  
3.人見館跡  埼玉県深谷市人見

 案内によれば、武蔵七党の猪俣党に属する、川匂政経がこの地に移り人見氏を称する。鎌倉時代には活躍するが、室町時代の初め丹波国に移る。室町時代中頃には深谷上杉氏の一族、上杉憲武が館を改修し居住する。東西に三つの郭が並ぶが、現在は西の郭の北側と西側に二重の土塁と堀跡が残る、と記されている。
 史跡の北東にある仙元山公園の駐車場を利用する。南を東西に流れる小川沿いを西へ向かう。案内が建つ辺りから西に土塁・堀跡が確認できる。案内板を南に行くと、右手は畑だが、奥に土塁跡と思われる高さが見えるが、畑とは言え民家もあり入れず。更に西へ回り込むと道路近くの竹林に二重の堀などが僅かに確認出来る。
仙元山公園を南から 館跡の標示と説明板 標示背後の堀・土塁

小川と土塁 土塁上から南の堀 南西隅の土塁など

西の外側の堀 竹林内の二重目の堀 南から遠望



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