金山(239m) 金山城跡 参考地形図 足利南部・上野境
令和5年(2023)9月25日 晴れ 太田市金山
太田市のHPには、文明元年(1469)に新田(岩松)家純の命により築城。その後、岩松氏の重臣であった横瀬氏(後の由良氏)が下剋上により実質上の金山城主となる。越後上杉氏、甲斐武田氏、小田原北条氏など有力大名の抗争の狭間にあった上野(こうずけ)で、金山城主由良氏は、上杉氏や北条氏との従属関係を保ちながら生き残りを図りる。その間、金山城下は10数回もの攻撃を受けるが、一度も中枢にまで攻め込まれずその堅固さを誇る。天正12年
(1584)金山城は北条氏の謀略により直接支配下に入り、天正18年(1590)豊臣秀吉の北条氏討伐により廃城となる。
築城は四期に分けられると考えられる。第一期は金山山頂を中心とした実城・二 ノ丸・三ノ丸程度の規模だったと考えられている。第二期は山城と日常空間とが一体化し、本城として拡張されていく時期と考えられ、金山城の内乱として明応4年(1495)に起こった明応の乱では『松陰私語』の記事に[真城](実城)と[中城]の存在が明記されている。[中城]は馬場曲輪、馬場下周辺と考えられている。この頃の縄張りは、南方に御台所曲輪、南曲輪とその帯曲輪、西方が馬場曲輪・馬場下を含め物見台下堀切まで広がったと考えられる。
第三期は有力大名により戦災を頻繁に受け、修築がしばしば行われた時期で、永禄9年(1566)から天正12年(1584)の北条氏に城を明け渡すま
でと考えられています。 第四期は北条氏の支配時代と考えられ、西城域西端の見附出丸や八王子山ノ砦から尾根伝いに延びる二重土塁と堀切などに北条氏特有の縄張りが顕著に見られる、等々と載る。
西城跡と見附出丸の下段に駐車場が設けられている。25年前に来ているが、記憶がほとんど無い。西端の展望台は無かったのではないか。駐車場から上段に上がると西城跡に出る。かなり広い曲輪となっている。東側にはハッキリした虎口らしきものは見当たらないが、西側には喰違虎口になる土塁が残る。
  
虎口外側には堀も残り、土塁には石積み跡が見られる。虎口から細い曲輪を西へ行くと、見附出丸が一段下に設けられている。出丸には土塁が残る。出丸から上段に上がるには、岩肌を削った虎口風になる。
西城西の虎口(外から) |
土塁に遺る石積み |
見附出丸から東の虎口 |
  
西城を東に向かい、やや下った鞍部に城址碑・休憩所が建っている。高い尾根筋以外に北下には幅広な散策路、右やや下には旧通路と標識があり、人一人の幅の道が残る。案内ではこの旧通路は、次に出てくる西矢倉台西堀切を南に下った所で、桟道跡に合流する。桟道跡の直ぐしたには車道が通っているが、ここからは通行禁止で下りられない。
西城を東に下った先 |
一段下、中央が旧通路 |
西矢倉台 西堀切 |
  
さらに先には西矢倉台下の堀切が現れ、西堀切と合わせ二重堀切になる。堀切側斜面には石積み僅かに残る。矢倉台跡からの堀切は木が鬱蒼として確認出来ない。
  
西矢倉台のある曲輪を東へ。物見台下虎口があり石垣で固められている。前面は大きな堀切で、特に左は岩盤を深く削っている。その奥には木橋を伴う馬場下通路虎口が連続する。右下の下まで石積みの土塁で固めている。
物見台下堀切、虎口 |
馬場下通路前の木橋等 |
下に矢倉台跡 |
  
馬場下通路から一段上に物見台跡がある。狭い尾根状だが北側に石垣を伴う土塁跡が見られる。先に馬場曲輪があり、東方向は三の丸とを区切る大堀切となる。南に一段下れば大堀切の末端にあたる場所に月の池がある。今は赤い金魚が数十匹泳いでいる。新田金山城の定番写真は、大手虎口の石垣と日の池辺りだろう。
馬場下通路手前の一風景 |
物見台跡 |
物見台から赤城山方面 |
  
  
  
南曲輪から南の眺めも素晴らしい。南曲輪から北に行くと、御台所跡・大けやき、藤棚が設けられている。本丸に上る石段脇には仮設(?)のスロープが付けられている。本丸斜面は切り岸で急斜面になり、東の帯曲輪風の先には犬走りと標柱がある。先にはやや広くなった帯曲輪がある。本丸北下に当たるが、そこには石垣が一部残存する。二の丸は竹林となり進入禁止。その南の三の丸は民家のため進入禁止。本丸西斜面にも僅かに石積みが残っている。
南曲輪から南の風景 |
御台所跡付近の大けやき |
石段先に新田神社 |
  
本丸跡の二社 |
本丸北東下の武者走り跡 |
本丸北側の帯曲輪 |
  
本丸北側の石垣跡 |
本丸西側の石積み跡 |
本丸・二の丸間の堀 |
  
|